エンジェルロード(えんじぇるろーど)【香川県土庄町(とのしょうちょう)】

エンジェルロードは、小豆島本島と弁天島その奥にある中余島・小与島・大余島の4つの島を繋ぐ干潮になると現れる道(砂州)です。弁天島までの砂州の砂州の長さは100メートルほどしかないため、気軽に歩いていくことができます。

本島側には約束の丘展望台があり、高い位置からエンジェルロードを眺めることができます。

駐車場の近くに天使のポストがあり、このポストに投函すると小豆島ならではの消印が押され届けられます。

また小豆島観光ガイドのHPで、簡単にエンジェルロードが現れる時間を確認することができます。

小豆島観光ガイドのHPはこちら

1枚目の写真は、約束の丘展望台から撮影しました。展望台自体が非常に小さいため5人ぐらいでいっぱいになる小さいな展望台です。

(31mm f4.0 1/160s ISO 250)
(31mm f7.1 1/160s ISO500 )

GoogleMapはこちら

寒霞渓(かんかけい)【香川県小豆島町】

寒霞渓は、小豆島にある渓谷で国の名称や日本三大渓谷美(日本三大奇勝)・日本百景・「21世紀に残したい日本の自然100選」などに選ばれている小豆島を代表する景勝地です。

もともとは鉤掛山(かぎかけやま)や神懸山(かみかけやま)と呼ばれていたが、明治11年(1878年)に儒学者の藤沢南岳によって「寒霞渓」と命名されました。

また寒霞渓には、ロープウェイがありゴンドラが渓谷近くを通るため、間近に渓谷美を楽しむことができます。ロープウェイは、40名乗りで片道6分になります。

寒霞渓ロープウェイのHPはこちら

撮影日は、天気が悪く晴れた一瞬で撮影したもので、場所は山頂駅の展望台です。

(32mm f8.0 1/160s ISO 250)
(28mm f8.0 1/160s ISO 250)

GoogleMapはこちら

松江城(まつえじょう)【島根県松江市】

松江城は、慶長16年(1611年)に堀尾忠氏(ほりおただうじ)が築城した平山城で、平成27年(2015年)には天守閣が国宝に指定されました。

天守閣は、有料となりますが天守まで上がることができます。
天守閣以外は、城址公園として開放されていて誰でも入ることができます。

また松江城周辺には、武家屋敷・小泉八雲記念館や小泉八雲旧居・松江歴史館などがあり、天守閣とのセット入場券なども販売されています。

またお城を囲むお堀から楽しめるのが、堀川めぐり です。
詳しくは、堀川めぐりのHPをご覧ください。→こちら

松江藩と松江城について

慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いで功績を挙げた堀尾忠氏が、隠岐・出雲を拝領し松江藩初代藩主となりました。当時、入城した月山富田城(がっさんとだじょう・現在の安来市)は山城で、城下町を作るには不利な地形で藩政に向かないため、廃城となっていた末次城のある亀田山に松江城を4年の歳月をかけ築城しました。しかし堀尾忠氏は早世し、また堀尾氏は、後継がなく3代で終わっています。

寛永15年(1638年)からは、信濃國松本藩の松平直政(まつだいらなおまさ・家康の孫)が入城しました。またこれを機に国持大名となり、出雲国松江藩の初代藩主となりました。その後は、松平家が明治維新まで続きました。

松平直政は、大坂夏の陣でその戦いぶりを敵の大将 真田幸村からも讃えられ軍扇を投げ渡されます。この軍扇は、出雲松江藩の宝として今も松江城天守閣に展示されています。

明治以降は、廃藩置県により廃城し、廃条例では天守閣の解体の危機となったが、地元の豪農や元藩士らなどによって買い戻され、保存されることとなりました。そのため天守閣以外の櫓(やぐら)などは、復元されたものになります。

松江城の公式HPはこちら

(28mm f13 1/200s ISO160 )
(28mm f13 1/200s ISO160 )
(28mm f13 1/200s ISO160 )

GoogleMapはこちら

出雲大社(いずもたいしゃ)【島根県出雲市】

正式な読み方を「いづもおおやしろ」といいます。
現在でも縁結びの神として多くの方から信仰を受けています。

明治4年(1871年)に出雲大社と改称するまでは、杵築大社(きずきおおやしろ)と呼ばれていました。

また出雲大社の敷地の中に、出雲大社とは別の出雲大社教(いずもおおやしろきょう)もあります。

祭神には、国津神である大国主大神を祀っています。

出雲大社の祭祀者は、もともと出雲国造(いずもこくぞう)家が担ってきましたが、長い歴史の中で千家(せんげ)家と北島(きたじま)家に2つに分かれました。その後も両家で出雲大社の祭祀を行ってきました。しかし千家家が出雲大社教を創設した時に、北島家も出雲教を起こし完全に分離しました。北島家の出雲教は、現在も銅の鳥居を右に進むと参拝することができます。

✳︎出雲大社教について
明治15年(1882年)に明治政府が発した「神官教導職分離令」により出雲大社としての布教ができなくなったため、当時の出雲大社の大宮司出雲國造 千家尊福(せんげ たかとみ)によって出雲大社教が創設されました。戦後になり出雲大社教は、出雲大社に統合されますが、現在も出雲大社とは別団体として残っています。

✳︎国譲りについて
国譲りとは古事記の中で、天津神の天照大神がその息子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつちはやひあめのおしほみみ)に葦原中国(あしはらのなかつくに)を治めるために、葦原中国を治めていた国津神の大国主命から葦原中国を譲り受ける話です。

大国主神は、葦原中国を譲る条件として「二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げます。その代わり、私の住む所として、天津神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てて下さい。そうすれば私は百(もも)足らず八十坰手(やそくまで)へ隠れましょう。私の180柱の子神たちは、長男の事代主神(ことしろぬしのかみ)に従って天津神に背かないでしょう」と言い、出雲に祀られたのが出雲大社の起源となっています。

(39mm f16 1/250s ISO160 )

神楽殿の大〆縄です。

(28mm f6.3 1/250s ISO 160)

「神光満殿」と右から書かれています。

(68mm f2.8 1/250s ISO160 )

十九社です。10月の神有月には扉が開けられ、全国から神様がいらっしゃいます。

(71mm f2.8 1/250s ISO160 )

氏社(うじのやしろ)の一つです。

(37mm f2.8 1/250s ISO 160)

胴の鳥居から見た境内です。

(28mm f14 1/320s ISO250 )

出雲大社のHPはこちら

GoogleMapはこちら

永平寺(えいへいじ)【福井県吉田郡永平寺町】

永平寺は、神奈川県の総持寺とならぶ曹洞宗の総本山になります。
永平寺に檀家はなく、曹洞宗の僧侶の出家道場となっています。

開祖は道元。本尊には、釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏です。
※三世仏・・・過去 現在 未来を表す仏様のこと。

開祖・道元について
1200年に京都に生まれる。両親が亡くなったあと、14歳で天台宗の総本山である比叡山延暦寺で仏門に入る。道元は「天台(宗)の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問を持ちました、答えを得ることができませんでした。。

その後、17歳で比叡山延暦寺を下り、建仁寺に入り栄西(えいさい)の弟子 明全(みょうぜん)に師事し、23歳のとき明全とともに南宋に渡りました。

南宋では阿育王山(あいくおうざん、※阿育王寺のこと)の典座(寺の役職のひとつ)と出会い、「修行とは、人の生活そのものです。また私たちが元々さとりを備えていても、修行をしなければ悟りは現れないのです。つまり修行とさとりは、切り離すことができず同時にしか現れない(修証不二)。」と教えを受けます。

その後、天童山景徳寺の住職 如浄(にょじょう)に師事します。ある日、座禅の修行中に他の僧が居眠りをした際に、如浄が「坐禅は、心身脱落でなければならん」という注意をきっかけに得悟(悟り)し、如浄から如浄禅師の仏法を受け継ぐことを許され、27歳のときに帰国しました。また道元の考えでは、座禅こそ最高の修行と考えられ「只管打坐(しかんたざ)※ただひたすらに坐ること(坐禅)の意味」という言葉で表されます。

33歳の時に京都深草(現在の伏見区)に、興正寺(こうしょうじ)を建立したが、のちに達磨宗から多くの入門者が相次いだことから比叡山から弾圧を受けました。

43歳の時、俗信者の越前国の地頭 波多野義重の招きで越前に移転。翌年、傘松に大佛寺を海山。翌々年に大佛寺を永平寺と改めました。

永平寺の名前の由来は、初めて中国に仏教が伝来した時の元号「永平※永久の平和の意味」と言われています。

(28mm f9.0 1/125s ISO 320)

永平寺の公式HPはこちら

GoogleMapはこちら

大阪市中之島の夜景(おおさかしなかのしまのやけい)【大阪府大阪市北区】

大阪市内を流れる堂島川と土佐堀川に挟まれた中洲の小さな島ですが、大阪市役所・日本銀行大阪支店・国立国際美術館・私立科学館などがあり、大阪の政治や文化の中心地ともいえる場所になります。

ツアーの宿泊ホテルが中之島にあったため、川沿いやリーガロイヤルホテルのイルミネーションなどを撮影した時の写真です。

(28mm f4.0 1/60s ISO6400 )
(31mm f2.8 1/60s ISO800 )
(28mm f2.8 1/600s ISO800 )
(28mm f2.8 1/300s ISO 6400)
(45mm f2.8 1/100s ISO 800)
(28mm f2.8 1/160s ISO 800)

GoogleMapはこちら

金沢城公園(かなざわじょうこうえん)【石川県金沢市】

金沢城跡が公園となり、復元された石川門・菱櫓・橋詰門続櫓などを見ることができます。

金沢城が建てられる以前は、一向一揆の拠点として浄土真宗の尾山御坊(おやまごぼう※城に近い要塞のような建物)となっていました。その後、織田信長によって一揆が攻め落とされ、織田信長の家臣・佐久間盛政(さくまもりまさ)が初代当主となった。

賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)を佐久間盛政は、柴田勝家(しばたかついえ)と戦い羽柴秀吉軍に敗れたため斬首となった。
前田利家(まえだとしいえ)が当主となり、加賀百万石の礎を作った。また江戸時代まで加賀藩は前田家がを治めた。


明治以降は軍施設として、戦後は金沢大学の旧丸の内キャンパスとして平成7年(1995年)まで使用されました。

平成8年(1996年)からは金沢県の所有となり、城内の復元工事が始まり現在も続いています。また平成20年(2008年)には金沢城跡として国の史跡に指定されてました。

石川門の櫓です。

(28mm f9.0 1/250s ISO80 )

三の丸から見た、左から橋詰門続櫓・五十間長屋・菱櫓 です。

(28mm f11 1/250s ISO200 )
(31mm f7.1 1/500s ISO80 )

石川県の公式HPはこちら

GoogleMapはこちら

わたらせ渓谷鐵道(わたらせけいこくてつどう)【群馬県・栃木県】

わたらせ渓谷鐵道は、群馬県桐生市の桐生駅から栃木県日光市間藤(まとう)駅で営業距離44.1キロメートルとなっています。


1989年から東日本旅客鉄道(現在のJR東日本)足尾線が第三センター鉄道として、わたらせ渓谷鐵道が運営を引き継ぎました。

この時は、鉄道写真の撮影ツアーでした。

(62mm f11 1/400s ISO400 )
(28mm f14 1/40s ISO400 )
(72mm f11 1/400s ISO400 )
(75mm f14 1/400s ISO 400)
(28mm f5.0 1/400s ISO400 )
(75mm f4.5 1/500s ISO 64)
(34mm f7.1 1/500s ISO64 )
(42mm f2.8 1/640s ISO 80)
[75mm f5.6 1/250s ISO100 )

上神梅駅の駅舎です。
上神梅駅の駅舎は、大正元年に建築された木造の駅です。平成20年(2008年)に国の有形文化財に指定されています。

(34mm f3.5 1/100s ISO160 )
(28mm f2.8 1/100s ISO160 )

わたらせ渓谷鐵道のHPはこちら

沢入駅のGoogleMapはこちら

湯滝(ゆだき・ゆたき)【栃木県日光市】

湯滝は、水源の湯ノ湖から流れ落ちる滝で、その流れはそのまま湯川になります。湯川は竜頭の滝に名前を変えて中禅寺湖へ流れ込みます。


水源の湯ノ湖は水のため、滝も湯ではなく水になります。「湯」の名前は、湯ノ湖の周辺に多くの温泉が湧いていることに由来します。


滝幅は25メートル、落差は50メートルになります。

(28mm f8.0 1/400s ISO125 )

売店があり、川魚や団子がいろりで焼かれていました。

(75mm f2.8 1/60s ISO100 )
(47mm f10 1/60s ISO100 )

GoogleMapへ

https://www.google.co.jp/maps/place/湯滝/@36.7942616,139.4277211,15.08z/data=!4m5!3m4!1s0x601fb20d0becafd7:0x3a7ea3a0f5c07099!8m2!3d36.7954194!4d139.428547?hl=ja

土津神社(はにつじんじゃ) 【福島県耶麻郡猪苗代町】

陸奥国会津藩初代藩主の保科正之(ほしなまさゆき)を祀っている。保科正之は、徳川家康の孫にあたる。生前に卜部家神道(うらべけしんとう)を学び、霊社号(仏教でいう戒名)が土津霊神で、土津神社の由来となった。
社殿は、保科正之の逝去の3年後の延宝3年(1675年)に建立された。その後、戊辰戦争の戦火にあい焼失したが、現在の社殿は明治13年(1880年)に再建されたものです。
境内には保科正之の子供たちも祀られており、右奥にある石畳を進んでいくと保科正之の墓所へも行くことができます。
春の桜と秋の紅葉の名所です。

保科正之の墓所です。

(42mm f4.5 1/125s ISO640 )
(32mm f4.5 1/125s ISO640 )

GoogleMapへ

https://www.google.co.jp/maps/place/鶴の舞橋/@40.5007658,140.1957516,10.07z/data=!4m5!3m4!1s0x5f9baf26ab60178b:0xf5ea32320a9f3fbe!8m2!3d40.752056!4d140.3772146