出雲大社(いずもたいしゃ)【島根県出雲市】

正式な読み方を「いづもおおやしろ」といいます。
現在でも縁結びの神として多くの方から信仰を受けています。

明治4年(1871年)に出雲大社と改称するまでは、杵築大社(きずきおおやしろ)と呼ばれていました。

また出雲大社の敷地の中に、出雲大社とは別の出雲大社教(いずもおおやしろきょう)もあります。

祭神には、国津神である大国主大神を祀っています。

出雲大社の祭祀者は、もともと出雲国造(いずもこくぞう)家が担ってきましたが、長い歴史の中で千家(せんげ)家と北島(きたじま)家に2つに分かれました。その後も両家で出雲大社の祭祀を行ってきました。しかし千家家が出雲大社教を創設した時に、北島家も出雲教を起こし完全に分離しました。北島家の出雲教は、現在も銅の鳥居を右に進むと参拝することができます。

✳︎出雲大社教について
明治15年(1882年)に明治政府が発した「神官教導職分離令」により出雲大社としての布教ができなくなったため、当時の出雲大社の大宮司出雲國造 千家尊福(せんげ たかとみ)によって出雲大社教が創設されました。戦後になり出雲大社教は、出雲大社に統合されますが、現在も出雲大社とは別団体として残っています。

✳︎国譲りについて
国譲りとは古事記の中で、天津神の天照大神がその息子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつちはやひあめのおしほみみ)に葦原中国(あしはらのなかつくに)を治めるために、葦原中国を治めていた国津神の大国主命から葦原中国を譲り受ける話です。

大国主神は、葦原中国を譲る条件として「二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げます。その代わり、私の住む所として、天津神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てて下さい。そうすれば私は百(もも)足らず八十坰手(やそくまで)へ隠れましょう。私の180柱の子神たちは、長男の事代主神(ことしろぬしのかみ)に従って天津神に背かないでしょう」と言い、出雲に祀られたのが出雲大社の起源となっています。

(39mm f16 1/250s ISO160 )

神楽殿の大〆縄です。

(28mm f6.3 1/250s ISO 160)

「神光満殿」と右から書かれています。

(68mm f2.8 1/250s ISO160 )

十九社です。10月の神有月には扉が開けられ、全国から神様がいらっしゃいます。

(71mm f2.8 1/250s ISO160 )

氏社(うじのやしろ)の一つです。

(37mm f2.8 1/250s ISO 160)

胴の鳥居から見た境内です。

(28mm f14 1/320s ISO250 )

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